想定ルート
先週の記事[美江寺から墨俣への道]で書いた通り、昨日の日曜日には安八梅まつりと墨俣道に行ってきた。
ただ、事前の計画では先に墨俣道を歩いたあとにさらに美濃路を南下して安八百梅園まで歩く予定だったのだが、早く起きれなかったので、先に安八梅まつりに行って、蜂蜜★皇帝のライブを見たあとにバスで大垣駅に移動し、大垣駅からは樽見鉄道で美江寺駅まで行き、そこから墨俣道の想定ルートを歩いてみた。
墨俣道の詳しいレポートについてはまた近いうちにこのブログにまとめるとして、本エントリーでは梅まつりをメインに記録しておく。
まず、朝8時過ぎに某立ち食いきしめんの店で、春限定のそばを食う。
その後、名鉄に乗り換えて新羽島駅まで向かう。で、新羽島から徒歩で安八百梅園まで歩いた。道中では安八百梅園の方向を書いた看板が誘導しているので、まあ迷うこと無く歩くことができる。
安八百梅園に着いたら、そこにはもう満開の梅がたくさんあった。
この日は朝方の気温は真冬並みに低かったのだが、昼までには気温がぐんぐんあがり、また現場では梅がたくさん咲いていて、まさに春の陽気になった。
あ、それと、この日は先日購入したばかりの今までに着たことのない素材のアウターを着ていったのだが、これが思ったより寒さに強かった。スポーツ用途で使えるものなので、これから晩冬から初春にかけての街道歩きでも活躍することになるだろう。
現場では屋台がいろいろ出ていたが、その中から「よもぎうどん」だったと思うが、それを頂いた。さわやかな味だった。
その後、梅を動画と写真で撮影し、会場を出て、「あすわ苑西」バス停まで歩いて名阪近鉄バスで穂積駅に移動。昨年も今年も名阪近鉄バスに乗る機会が多い。
穂積駅から隣の大垣駅に移動し、ちょっと駅の売店でおにぎりと飲み物を買って、樽見鉄道の電車に乗る前にそれを頬張る。
樽見鉄道の美江寺駅で降り、墨俣への道との分岐までは中山道を歩き、分岐点にある道標を撮影した後は墨俣への道を歩き始めた。
この道。道中は既に自分が知っている道標以外にも、石仏なども多く、思った通り古い道であることがわかった。
墨俣城にたどり着いた後、城の目の前の橋を渡って美濃路に入り、バス停を目指した。このバス停に来るのは2週間連続だ。定刻通りやってきた名阪近鉄バスに乗り、大垣駅まで移動。17時直前を狙って某店に入り、17時からの夜メニューから好きなもんを注文したった。もちろん、街道歩きのスポーツドリンクも。
シメにそばを食べたらけっこう腹一杯になった。
その後JRで岐阜駅に移動。岐阜では名鉄に乗り換えて金山までのんびり移動し、金山からJRと地下鉄を乗り継いで自宅に戻ったのだった。
今朝、はちペラの3月のスケジュールが発表された。それによると、開催中の安八梅まつりで、3月3日にライブがあるという。
これはチャンスだ。というのも、西美濃地方に以前から歩いてみたい道があったのだが、あまりにも短い道で1日かけて歩くような距離でもないので、何かこの地方に用事があるついでに行こうかと思っていたので。
その道とは、中山道の美江寺から墨俣に通じる道である。そのポイントにある道標が↓これだ。
「左 大垣 墨俣ニ至ル」と読める。
参考までにこの道標の別の面が↓これ。
「右 大垣 赤坂ニ至ル」と読める。
どちらにも「大垣」があるが、右の大垣は大垣駅とかがあるあたりで、左の大垣は墨俣城があるあたりということだろう。
ちなみにgoogleマップではこの道標は「墨俣道分岐道標」と登録されている。
今回はこの墨俣への道を歩こうというわけだ。ルートは不明だが、まあ美濃路墨俣宿までの道は限られているので、想定ルートを作成するのは簡単だ。道中、十九条駅の前に道標があることも確認している。
この道を墨俣まで歩いたあと、美濃路に入り、結神社ちかくまで歩いたところで南下している古そうな道がある。この道をちょろっとストビューで見たところ、祠や石仏がいくつかあったので、おそらく古い道であろうと推察できる。当日はこの道も歩いて、梅まつりの会場である安八百梅園まで歩いてみたい。
1ヶ月前のことになるが、月一の岐阜市でのアイドルイベントに行く直前、名古屋駅構内の立ち食いでちょっとかがんだ格好でそばを食っていたら、腰が急に痛くなってしまった。
それから2日間くらいは本当に痛かったのだが、徐々に痛みは和らいできた。
しかし、ほんの僅かな痛みだけが、1ヶ月経った今になっても消えない。
この間、あまり腰に負担をかけることは避けようと思い、重い荷物を背負っての街道ロングウォークは行ってこなかった。まあせいぜい、カメラを持って15キロほど散歩する程度で。
昨日もそのイベントのために岐阜に行ったわけだが、、、なんか岡山からすげえスタイルの良いとんでもない美少女軍団?美女軍団が来ていて。 1st☆kissというグループらしく、聞くと、なんと前日にアイドルデビューしたばかりというから驚きである。
イベント観覧後、岐阜市内で昔からありそうな道を探索してみた。
柳ヶ瀬antsの目の前の道が、柳ケ瀬商店街、西柳ヶ瀬商店街から続いていて、そのまま西に伸ばすと中山道に接続するので、これに目をつけたわけだ。
以前どこかで見た地図で、接続ポイントからそう遠くないあたりに「道標」と書かれていた記憶があって、そのあたりを歩いてみたのだが、残念ながら道標は見つからなかった。
(今、その地図を確認したのだが、記憶とはまったく違う場所だった・・・)
そんな感じの空振りなわけだが、収穫はあった。川沿いで常夜灯を見つけたのだ。
谷汲街道の「亀の渡し」にある常夜灯だそうで。それにしても、谷汲山への道はいたるところから分岐しているよなぁ。。。
ただ、この場所から谷汲山へ行く道となると・・・・地図を見てもいまいち、というかほとんどルートがわからない。かつての名鉄谷汲線はちょっと離れているし。。。
中山道の大湫から東海道の池鯉鮒を結ぶ「三河街道」という道がある。というか、あるらしい。
「らしい」というのも、その存在はいろんな文献で紹介されているのだが、詳細なルートを紹介している媒体がまったく見つからないわけで。
わかっているのは大湫から池鯉鮒までどの町/村を通るかってことと、あとは、下街道と一部を共有していて、「名滝の追分」で下街道は東に向かって土岐川を渡るのに対し、三河街道はそのまま土岐川の西側を通るってことくらいだ。
で、ちょうど2年前に、名滝の追分から分岐した三河街道がどういうルートを通るか、地図上で想像してみた。おそらくは県道421とほぼほぼ同じで、旧道は途中でそれたりしているんじゃないかと思った。ルートを想像して、2020年6月21日、実際に歩いてみた。
瑞浪駅を出て土岐橋をわたり、 中島醸造 のあたりに来る。このへんは風情がある街並みだ。すぐ近くに小里川があって、川の向こう側では421が北上している。421は川の北岸で、川に遮られる形で折れ曲がっているのだが、南側に目を向けると、421が川をまっすぐわたってきたかのごとく延びている道がある。そしてそこには、このような道標がある。
なんて書いてあるか?よくわからないが、おそらくは「左 大湫 大井」「右 岩村 明智」ではないか??
さて、三河街道とは本当に謎の多い街道なわけだが、本日、ちょっとひさしぶりにぐぐってみたら、とんでもないものを見つけてしまった。どうも瑞浪市観光協会がわりと最近に作成したサイトのようで、市内の三河街道について書かれているではないか!
googleマップでも出てきた。「三河街道 道標」でマップ検索すると、上記サイトで紹介されている場所がヒットする。「瑞浪.com」の表記があるので、おそらくは瑞浪市観光協会が登録してくれたのだろう。実にすばらしい。
ただ、瑞浪.comのサイトではこの道標は「中切辻の三河街道道標」という名で紹介されているが、Googleマップでは「戸切辻の三河街道道標」で登録されている。うーん・・・どちらなんだ?
もう少しGoogleマップを見てみると、中街道と下街道の分岐地点が「中切追分の道標 」と登録されていて、この周辺には中切神社や中切公民館がある。瑞浪.comのサイトでも中切辻の道標のページがあって、こちらは.comもマップも一致してる。
というわけで、上の写真の道標は「戸切」だろうと思ったのだが、あらためてその周辺をGoogleマップで近くを見ると「中切地蔵菩薩」が登録されていて、これが瑞浪.comでは益見中切 辻の地蔵のページで紹介されている。
うーん、謎だ・・・
ちなみに釜戸には「下切」もあれば「上切」もある・・・。下街道を歩けば目にするアレです。
ちょっとよくわからなくなってきたので、今日は酒を飲んで寝ることにしよう。
本日、下街道脇道について調べていたのだけど、この道は瑞浪で下街道から分岐するという情報がある。
そのルートというのは、日曜日に自分が瑞浪駅から歩いた道とほぼほぼイコールだった。
この道も古くからありそうと思いつつ、遺構など無いか見逃さないように歩いたが、特に何もなかった。
先日のエントリー:「あさっては晴れれば刃物の町・関市に行こうと思う」に書いたとおり、中山道太田宿から関に至るまでの道を歩いた。ただし、歩いたのは大門町の道標に至るまでで、そこから飛騨西街道との合流地点までは歩いていない。下記がGPSログである。
↓は、スタート地点の道標ちかくにある説明板。
およそ10キロほどの道のりだが、道中は正直、車道の歩道を歩く区間がほとんどなので、正直、面白くはない。ただ、歩いているとけっこう頻繁に石仏やら常夜灯やらが見られるし、大きな車道を渡るための歩道橋や地下道が何箇所かあるので、ああこの道はかつてそれなりに使われた旧道なんだなぁという思いを強くしながら歩いた。
そして、最大の見所である大門町の道標。
Googleストリートビューではこの道標の後ろにさらに道標があるのは気づかなかった。が、実際には折れたり埋もれたりして判読不能な道標がこれの後ろにあり、可能な限り写真を撮影してきた。
それにしても、ここで言う「右 なごや道」って、どういうルートなんだろう。右は、方角的には南だ。南のほうには中山道の鵜沼宿があり、ここに接続する「稲置街道」を歩けば、名古屋にたどり着く。が、詳細はさっぱりわからん。鵜沼に分岐の道標などあれば手がかりになるのだが、そんなものの存在は知らない。
この週末には関市ではものまつりが開催される。
なので晴れればいきたいのだが、私は街道ウォーカー。以前から気になっていたいくつかのポイントを見て回りたいと思う。
まずはこれ。
「右なごや道」と書いてあるように見える。この道標を(1)とする。僕はこの(1)道標がある道は、中山道太田宿とつながっているように思う。太田宿本陣近くにある↓の道標から分かれる道だ。
この道標を(2)とする。さらに、郡上街道から小屋名の追分で別れて飛騨金山まで至る「飛騨西街道」の途中に↓の道標がある。
この道標を(3)とする。僕は(3)~(1)~(2)の一連のルートが飛騨西街道と中山道をつなぐルートなんじゃないかと、以前から思っていた。Google Mapを見ると一部が「越前美濃街道」と重複しているが、関市の市街地で斜めに外れるように思う。
・・・と思いつつ調べていたのだが、今日、おもしろいものを見つけた。
ああ自分が想定したルートにそっくりだ。
このルート以外の場所にも石仏などいくつかあるので、それらを含めて、土曜日は晴れれば歩いてみたい。
本日、下街道の勝川から上街道に抜ける道を歩いた。
上街道との合流地点にはこの石仏道標がある。
このお地蔵様は『郷土誌かすがい 第19号』によると「椎堅地蔵」というらしい。「右 志ミ州道」「左 かち川道」と刻まれている。
川戸新道を歩いた その2 下街道から分かれ、川戸新道の開始地点までからの続き。
例によって、エントリー中の写真にカッコ書きで連番が振ってあるものは、下地図中のウェイポイントを撮影したものである。
前回は下街道から分岐して川戸新道に至る道、すなわち虎渓道の道標から土合の道標までのルートを掲載した。いよいよ当エントリーが川戸新道である。
ちなみに、土合の道標を南下する道が「生田新道」で、これは下街道に続いている。
土合の道標をそのまま道なりに東に進むと、すぐに、左手に祠と石が見えてくる。
どんどん、道を東に進む。歩道が無い道をときどき車が通りかかるので、お世辞にも歩きやすいとは言いづらい。が、マイナーな街道を歩いている感はあるw。
しばらくすると右に曲がる道があって、その前の建物の影に祠がある。
そこからすぐのところに、「欠築沢川橋りょう」がある。「欠築」には丁寧に「けっちく」というフリガナがカッコ書きで振ってあるが、僕の記憶ではこのあたりの地名は「欠簗」(かけやな)だったと思うのだが…。
左側にJRの線路と右側に森を見つつ、どんどん東に歩いていくと、土岐市に突入する。そのあたりから右側の視界が開け始め、美しい土岐川がはるか下方に見えてくる。しばらくは視線を右に向けながら歩くのが良い。
右の川の美しさを見つつも、道全体の観察を怠らず続けていたところ、左側の崖になんと石仏があるではないか!これは馬頭観音だろうか?
しばらく進んだところにも、石仏が!
この時点で自分は、この道を選んで正解だったと確信したのだった。
さらに、石仏が。ガケを囲むフェンスも仏様を囲むような罰当たりなことはしていない。
そして、こんなものを見つけた。判読はできそうなので、一眼レフで何枚か撮影しておいた。
ちなみに上記の石碑であるが、多治見市の「コース71 多治見駅から土岐市駅コース」だと「川戸街道士記」、土岐市の「広報とき」には「川戸新道之記」とある。僕には「川戸新道士記」と読めるので、そう記載した。
石碑を超えてどんどん坂を下ると、やがて平坦になってきて、市街地のような景色が現れてくる。
国道19号をくぐって少しのところに、左にそれる道がある。これがおそらく旧道だと思うのだが、そう思う根拠がこの常夜灯の存在である。
常夜灯の脚には道案内が書かれている。「左 名古屋」は判読できる。が右は何だ?「右 岡○」の○は崎のつくり部分のように見えるが…。確かに、ここを南に南に進めば、やがて岡崎にたどり着く。
そして国道19号を超えて駐車場のような場の道を歩いていると、左側に、道標を兼ねた常夜灯、津島神社碑、二十二夜の石碑、道標の4つが待ち構えている。これらはとても立派だ。自分はいろいろな街道を歩いてきたが、これほど目立つ遺構はそうそうあるものではない。
このうち、小さな道標のアップ写真だけ、下記に掲載する。(他は撮影をミスってたので・・・。)
ここが明治街道(下街道の山野内~中山道の今渡二軒家)なので、ここがゴール地点と考えられる。
以上が川戸新道の想定コースである。
川戸新道を歩いた その1からの続きです。
前回は自作ルートの全体図を記載した。そこでも書いたとおり、このルートはあくまでも断片的な情報を元に作ったものなので、正確ではないかもしれない。
当エントリーで記載する区間は、下街道の虎渓道道標から土合の道標まで。つまり、下街道から分かれて川戸新道に至る道と考えられる区間で、下図の青線の道である。
また、丸括弧で連番が振ってある写真は、下図の赤いウェイポイント部分を撮影したものである。(1)は一番最初のウェイポイント、(2)はその次、といった具合だ。
下街道の多治見橋からやや西南(名古屋方面)に行ったところに、五叉路がある。これを南西に向かう「ながせ商店街」が下街道で、北西に向かうのが今渡街道だ。そして北に向かう道には立派な「虎渓道」の道標があり、ここから虎渓山、高田、そして川戸新道に向かうことができる。
この道を歩くとすぐにJRの線路にぶつかるのだが、線路のすぐ近くに、馬頭観音がある。
馬頭観音のすぐ右に踏切があるので、これを渡る。
踏切を渡ると、ころうどんの名店「信濃屋」があるので、これを右に見つつまっすぐ歩くと、正面に常夜灯と祠が見えてくる。
常夜灯を左に見つつ北上する。国道19号を渡ってしばらくすると、Y字路にぶつかる。
これを右折すると虎渓山永保寺に至る道なのだが、そちらには行かず左折して永保寺の西を通る。
青線の道からはやや外れるが、永保寺の北東あたりにこのような道標のような石があった。表面は分厚いコケで覆われていて、何がなんだかさっぱりわからない。コケがかろうじて生えていない側面に文字が見えるが、残念ながら1字2字しかわからない。多治見市史で紹介されている道標なのだろうか・・・?
JRの線路に沿って東に進むと、左右が木で囲まれた道に入る。傾斜が下りになり、進んでいくと、視界が開けてきて、右側に土岐川が、左側にJRの高架が見えてくる。
そのまま進んで土岐川に注ぎ込む支流の橋を渡ったところに、道標がある。
文字がしっかり判読できるこの道標には、西面に「右 善光寺道」、東面に「 右 たか田 道」「左 こけい 道」と書かれているこの道標は、多治見市のウォーキングコース「コース61虎渓山と山吹町コース」にも記載されている。
ここから土岐の久尻に至る道が、川戸新道である。
(その3につづく)